2008年2月21日木曜日

原点回帰

「自分が信じている思想を宗教と呼ぶなら、大自然に全ての教えがあると考えるUniearthさんは、自然教だよね。」

と、友人に言われた。

その言葉がひっかかっていたので、数日考えてみて、「そう呼ぶならば、確かにわたしは自然教だな。」と納得した。


前だったら即答したかもしれないけれど、数日考えたのには訳があった。
その理由とは、「原点回帰」

東京で生まれ育ったわたしが、
野生動物に出会い、
土の匂いを嗅ぎ、
雨の音を聞き、
雨のしずくが鏡のような湖に落ちて広がる波紋をみつめ、
樹々の生命力と、生きるために「自然に」作り上げられた完璧なシステムに圧倒され、
雪の山を滑り、そして歩き、
太陽の厳しさと恩恵を感じ、
海の理性を外してしまう月の力を知った。
そうして自然を旅していくうちに、自分という「自然」への旅がはじまった。
大自然は私たちのいう「言葉」は話さないが、全てが悠久の流れの中で、まるでそれぞれが担った役割を完璧に理解し、森や川や海といった森羅万象すべての調和を生み出している事が、なにより最も驚きだった。
これらはわたしの体験に基づいているので、言葉で表すのはとても難しいけれど、
自然から教えてもらった数々の驚きが確信に変わっていくその境目で、
偶然とは思えない出来事や人々に出会うことが格段に増えた。
彼らはまるで、わたしの感じた事を「信じていいのだよ。」とわざわざ教えにきてくれるようだった。
意識を合わせれば合わせるほど、出来事が次々に引き寄せられた。
意識は戻ってくるのではないだろうか?そう考えるようになり、私の意識は宇宙へと向かっていった。
そんな風にして、わたしの旅は続いていたのだけど、ある時から壁のようなものにぶつかった。
意識ばっかり先行して、感謝や愛という言葉だけを使って、体験が伴ってきていないような罪悪感に捕われた。
好きだった創作もなかなかできなくなった。文章も急にへたくそになった。
信じていた世界が、急に自分のひとりよがりのように感じられた。
世の中には、たくさんの世界がある。
その全ては、正しくもないし、間違ってもいない。
大きな目で見たら、正しいかどうかでものごとを判断するのは、人間というイキモノの小さな視点ではないだろうか。
わたしは今、視野を狭めてしまってはいないだろうか。
悶々としながら、秋雨がしとしとと降る昼下がりに、カフェでノートを開き、ペンを取った。
なかなかペンが走らない。もどかしい。
頭の中を文章にする事ができない。私のすきなことだというのに!
途方にくれてしょうもなく意味のない言葉を書き綴ねていたとき、急にペンが走った。
「キミは愛と感謝を義務化している。愛と感謝はしなければいけないことではない。
今のキミは何をしている?
働いている。ハイキングが好きだ。結婚している。楽しさを見いだせないでもがいている…。
愛と感謝とは、そんな今のキミの生活から、自然とうまれてくるものであり、義務的に思う事ではない。」
それを書いたのは、明らかに私ではなかった。
しかも、事実だった。
その頃わたしは、自然や人の優しさを「感じられない自分」に罪悪感を持ち始めていたし、前は感じていただけに焦っていた。
そんなわたしに、誰かがペンを取って、「ええいもう、いい加減気づきなさい!」と言わんばかりに伝えたくれたしか思えなかった。
それから肩の力をだいぶ抜いて、「感じないこと」に罪悪感を感じないようにした。
森に行って一体感が得られなくても別に気にしないようにした。
そうこうして、気がつくと、わたしは、今まで自分がいた世界を外から見ていた。
その世界で学ぶ事もまだありそうだけど、今いるのはそこではないような気がした。
わたしは、そこに留まらず、歩き出す選択をした。
今、冬の山に関わる仕事をしている。
山を考え、自然の脅威と人の生命力に、改めて感動するようになった。
体験から、素直に「感じる」ようになり、それをとても楽しんでいます。
仕事を通して、バックカントリーに出る機会も多くなった。
そうしていくうちに、宇宙まで響く、驚きと感動がまた、胸のうちからぶわあーっと溢れてくるようになった。
それは、わたしにとって、純粋に楽しいことなのです!
戻ってきました、原点に。フフフ♪
原点回帰。
わたしはやっぱり、自然教なのかもしれないです。
人生の旅は面白い!!
わたしのつぶやき、読んでくれてありがとう☆

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