2015年6月26日金曜日

ニュートラル 

海をぼんやりと照らす月が美しくて、部屋の灯りを消して外に出た。
涼しいような、ぬるいような風がときおりふわっと吹き、濡れた髪をなでる。
ハイウェイを走る車の、その奥から、かすかに海の音が聞こえる。






引っ越しをして、
朝でも夜でも、好きなときに洗濯してもいいし、
夜中にギターをひいたっていい。
子どもが早朝から元気でも、”静かに!”と注意しなくてもいいし、
好きなように庭を使ってもいい。

少しづつ、しかし長い間蓄積されていたストレスから解放されたからか、
引っ越してから何も考えない日々が続いている。


運動して体を鍛えたい、とか、あたらしいことに挑戦したいとか、新しい人と知り合いたいというような前向きなチャレンジ精神というものが、全く湧いてこない。

ただ、日々、家族と過ごし、菜園に水をやり、ご飯をつくり、お皿を洗い、たまに掃除をし、車で10分の町まで買い物に行き、帰ってくる。
夜はパソコンを開き、気が向いたらギターを弾く。寝る。そして寝る。

どこか客観的で、それでいて”やりたいこと”がない。

こんな調子なので、どこそこに行こう!という前向きな夏休みの予定をたてる気にもなれないのに、短い夏のピークが近づいてきているのを感じている。

こんなんでいいのだろうか?
これは、満たされているということなのだろうか、
それとも、空っぽということなのだろうか。

いや、”空っぽで満たされている”のだろうか。

そうだと仮定して、これは幸せのひとつのかたちだと、満足しておけばいいのかもしれない。

今日は新月でも満月でもない。象徴的な日でもない。

それでもいいじゃない、と心でつぶやきながら、
闇夜に向かいながら胸に手をあてて、”私はいったい何がしたいんだろう?”と聞いてみた。

すると、シンプルで、無駄も気負いもなく、
しかし、期待や希望と呼べるものでも、世界を平和にする素敵な行動でもなく、
ただ長い間私の中で共存している、自己満足かつ自己完結的ないくつかの誓いが、
コン、コンと胸を叩いてくる。

誰を幸せにできるものでもないけど、なんの打算もないニュートラルな想いというのは、あんがい貴重なのかもしれない。

そんなことを想った静かなある夜の話でした。

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